「先生、うちは社員との距離が近いんで、辛い時はちゃんと言ってきますよ」
先日お会いした社長さんは、そう言って胸を張っていました。従業員15名の製造業。たしかに社長自ら現場を回り、社員一人ひとりと言葉を交わす、風通しのよい会社です。「だからうちは大丈夫」——本当にそうでしょうか。
全国18,644人の経営者が語った「社長さん白書2026」
アクサ生命保険が2026年9月7日に発表した「社長さん白書2026」は、全国47都道府県の中小企業経営者18,644人を対象に、2026年3月2日〜5月31日に実施されたオンライン調査です。今年で15回目という継続調査で、インフレ長期化への懸念とあわせて、事業継続における課題として「経営者自身の健康」(44.2%)、「人材不足」(43.8%)、「後継者育成」(42.4%)といった「人」に関する項目が上位を占めたことが報告されています。
以前の記事で、経営者自身が倒れた場合に会社が受けるダメージの大きさについて触れましたが(「うちは大丈夫」が一番危ない――正常性バイアスとは?)、今回はこの調査がもうひとつ浮き彫りにした、見落とされがちな課題に注目してみます。それが、従業員の心の健康です。
2028年4月、50人未満の会社にも「ストレスチェック」が義務になる
従業員50人以上の事業場ではすでに義務化されているストレスチェック制度が、2025年5月に公布された法改正により、2028年4月からは50人未満の事業場にも義務化されます。つまり、日本の中小企業の大半が対象になるということです。
「またお役所仕事が増えるのか」と思う社長さんもいるでしょう。ですが、この制度が対象にしているのは、まさに先ほどの「うちは大丈夫」という感覚そのものなんです。
準備が整っているのは、企業規模によって驚くほど差がある
白書では、ストレスチェックの実施意向について「既に実施している」「実施を検討している」と回答した割合を企業規模別に集計しています。結果は次の通りです。
従業員10人未満の会社では、実施・検討している割合はわずか11.1%。逆に言えば、9割近くの会社がまだ「未定」か「法律の内容をこれから理解する」段階に留まっているということです。会社の規模が小さいほど、準備が後回しになっている実態が見えてきます。
なぜ、小さな会社ほど後回しになるのか
「人手も予算も限られているから」というのは、もちろん大きな理由のひとつでしょう。ですが、もうひとつ見過ごせない理由があると私は思っています。それは、社長さん自身が「うちはちゃんと気づけている」と、心のどこかで感じてしまっていることです。
冒頭の社長さんのように、距離が近い職場ほど「言ってくるはず」「様子でわかるはず」という感覚は強くなります。ここに、心理学が説明してくれる、ひとつのすれ違いが隠れています。
心理学の”透明性の錯覚”というズレ
心理学に「透明性の錯覚(イリュージョン・オブ・トランスペアレンシー)」という考え方があります。1998年にアメリカの心理学者ギロビッチらが行った実験で示された傾向で、人は自分の感情や内心の状態が、実際よりもずっと相手に伝わっていると思い込んでしまう、というものです。
たとえば、緊張していることを必死に隠しているつもりでも、当人は「バレバレだろう」と感じている一方で、周りはまったく気づいていない——というようなことが、実験でも繰り返し確認されています。自分の内側で起きていることは、自分にとってはあまりに大きく感じられるため、「これだけ感じているのだから、当然相手にも伝わっているはずだ」と錯覚してしまうんですね。
経営者の「顔を見ればわかる」という思い込み
この錯覚は、実は経営者と社員の両方に、逆向きの形で起きています。
経営者側は、「毎日顔を合わせているのだから、様子がおかしければ気づけるはずだ」と思いがちです。距離が近いからこそ、自分の観察眼への自信も強くなります。ところが、社員の内面の変化は、思っているほど表には出ません。普段から明るく振る舞うタイプの社員ほど、その傾向は強くなります。
社員の「言わなくても分かってもらえてる」という思い込み
一方の社員側にも、同じ錯覚が逆方向で起きています。「これだけ普通に、いつも通りに振る舞っているのだから、大丈夫だと思われているはずだ」「わざわざ言わなくても、頑張っているのは伝わっているはずだ」——そう感じている社員も少なくありません。
お互いが「伝わっているはず」と思い込んだまま、実際には何も言葉にされない。このすれ違いが積み重なった先に何が起きるかは、以前の記事(お盆明けに、社員が辞める――夏の離職が増える”心理”と、経営者が今できる備え)でも触れた、気づかれないまま離職や休職に至ってしまうケースと重なります。中堅社員が離れていく背景にある「心理的契約」のズレ(なぜ30代だけモチベーションが下がるのか)も、根っこの部分では同じ構造かもしれません。
中小企業にこそできる「言葉にする」仕組み
ここで大事なのは、「距離が近いこと」自体は決して悪いことではない、という点です。むしろ中小企業の強みです。問題なのは、距離の近さに安心して、「言葉にする機会」をあえて設計することを怠ってしまうことなんです。
「うちは仲がいいから」を、「だから大丈夫」ではなく、「だからこそ、言葉にする機会をつくりやすい」に変換する。ストレスチェックの義務化は、その仕組みを後押ししてくれる、ちょうどいいきっかけかもしれません。
今日からできる3つの備え
「最近どう?」ではなく「今、一番しんどいのは何?」くらい具体的に聞く。評価とは切り離した、雑談の場で行うのがコツです。
遅刻や欠勤の増加、口数の減少、ケアレスミスの増加など。「顔でわかる」に頼らず、行動の変化で気づく仕組みにしておきます。
法律で決まったからではなく、「思い込みのズレに気づく機会」として社員に説明できると、受け止め方も変わってきます。
まとめ
「うちの社員は大丈夫」という感覚は、多くの場合、経営者自身の観察眼への自信から来ています。ですが心理学が教えてくれるのは、私たちは誰しも、自分の内面が思っているほどには相手に伝わっていない、という事実です。それは経営者にも、社員にも、同じように当てはまります。
- ストレスチェック義務化(2028年4月・50人未満事業場)への準備は、企業規模が小さいほど遅れている(10人未満は11.1%)
- 「顔を見ればわかる」も「言わなくても伝わっているはず」も、どちらも”透明性の錯覚”というすれ違い
- 距離の近さを活かすには、”言葉にする機会”をあえて仕組みとして設計することが鍵になる
従業員の心の健康は、採用や賃金と同じように、経営そのものに直結するテーマです。どこから手をつければいいか迷ったときは、外部の目を入れて一緒に仕組みを整えていくのもひとつの方法です。経営の伴走顧問では、こうした「人」に関わるリスクへの備えについても、経営者の皆さまと一緒に考えています。

