今年、思い切って賃上げに踏み切った。そんな経営者の方、多いのではないでしょうか。
フォーバルGDXリサーチ研究所が2026年9月に発表した「中小企業経営実態調査」(2026年6月・有効回答1,653件)によると、中小企業の63.3%がすでに賃上げを実施済みだそうです。そして、賃上げを実施した企業に理由を尋ねたところ、なんと73.9%が「従業員の定着率や満足度を高めるため」と回答しています。
ところが、です。同じ調査では、賃上げを実施した企業の57.8%が「経営上の負担になっている」とも答えています。人件費の増加に苦しみながら、それでも「辞めてほしくない」という一心で、多くの経営者が身を削って賃上げをしている。その構図が、数字からはっきり見えてきます。
中小企業の6割超が、覚悟の賃上げに踏み切っている
賃上げ率そのものも見てみましょう。実施企業の48.4%が「1〜4%未満」にとどまっており、国が示す最低賃金の引き上げ目安(4.9%)にはまだ届いていない企業が多いのが実情です。それでも、負担を感じている企業の89.9%が「人件費負担の増加」を、74.9%が「営業利益の減少」を挙げています。決して余裕があってやっているわけではないのですね。
以前このブログでも、最低賃金の引き上げが中小企業の経営にどう影響するかを取り上げました(最低賃金1,176円時代——”働く人には朗報”のウラで、中小企業が今すぐ備えるべきこと)。今回の調査は、多くの経営者が実際にその”備え”を実行に移した結果とも言えるでしょう。
それだけの覚悟をして、それだけの目的(定着率・満足度の向上)を掲げて実行した施策です。効果が出ていてほしい、と誰もが思うはずです。
「先生、それでも辞めるんです」
先日、ある社長からこんな相談を受けました。
「先生、うちも今年、思い切って昇給したんですよ。正直、資金繰り的にはかなり無理をしました。これで少しは落ち着くかなと思っていたんですが……先月、また一人辞めましてね」
社長の表情には、驚きと、少しの徒労感がにじんでいました。無理をしてでも社員のためにと踏み切った決断が、思うように報われない。これは、決して珍しい話ではありません。
「社長、それはお辛かったですね。せっかく踏み切ったのに、結果が見えないと、何のために無理をしたのか分からなくなってしまいますよね」
そう伝えたうえで、私はある心理学の理論を紹介しました。
満足と不満は、実は「別のスイッチ」だった
アメリカの臨床心理学者フレデリック・ハーズバーグが提唱した「二要因理論」という考え方があります。ハーズバーグは、働く人に「仕事で満足を感じた出来事」と「仕事で不満を感じた出来事」を別々に聞き取る調査を行いました。すると面白いことが分かったのです。
「満足」を生み出す要因と、「不満」を生み出す要因は、実はまったく別の種類のものだった――というのがこの理論の核心です。私たちはつい、「満足の反対は不満」「不満をなくせば満足になる」と考えがちですが、ハーズバーグはそうではないと言うのですね。
給与は「衛生要因」――不満は防げても、やる気には火がつかない
二要因理論では、要因を大きく2種類に分けます。給与・労働条件・人間関係・会社の方針といった「衛生要因」と、達成感・承認・仕事そのものの面白さ・成長実感といった「動機づけ要因」です。
ここで押さえておきたいのが、給与は基本的に「衛生要因」に分類される、という点です。衛生要因は、足りないと強い不満を生みますが、満たしたからといって、それだけで人がやる気に燃えたり、仕事に前向きになったりするわけではありません。あくまで「不満をこれ以上大きくしない」ための土台なのです。
つまり、賃上げは「辞める理由」を1つ減らすことはできても、「この会社で頑張りたい」という積極的な理由を新たに作ってくれるわけではない、ということですね。多くの経営者が「賃上げ=定着策」と考えてしまいがちですが、実はこの2つは、似ているようでまったく別の作用なのです。
なぜ、賃上げの効果は”すぐに薄れて”しまうのか
賃上げをした直後は、社員も喜んでくれます。「ありがたい」「頑張ろう」という反応も、最初はきっとあったはずです。ところが数ヶ月もすると、その金額はいつの間にか「当たり前の給料」になってしまいます。衛生要因は、満たされた状態が基準になってしまうと、それ以上プラスの力を発揮しにくいという性質を持っているからです。
むしろ厄介なのは、その後です。基準が上がった分だけ、次に何か不満なこと(例えば、忙しさや人間関係、評価への納得感のなさ)が起きたときに、「せっかく給料を上げてもらったのに、それでもこの職場は……」と、不満の重みが増してしまうことすらあります。給与そのものは正しい投資だったとしても、それ単体で”定着”というゴールにたどり着くのは、実は難しいのですね。
動機づけ要因――実は、中小企業のほうが強い場所
ここで朗報があります。「動機づけ要因」――達成感、承認、成長実感、仕事の意味――は、実は大企業よりも中小企業のほうが、圧倒的に作りやすい領域なのです。
大企業では、社長が一人ひとりの社員の頑張りを直接見て、直接言葉で伝えることはほとんど不可能です。承認は仕組み化・制度化されるほかありません。ところが中小企業なら、経営者自身が、その日のうちに「あの案件、よく頑張ってくれたね」と直接声をかけることができます。給料の金額では大企業に敵わなくても、”承認の速さと熱量”では、中小企業のほうが有利なのです。
実際、以前お伝えした中堅社員のモチベーション低下の話(なぜ30代だけモチベーションが下がるのか――”新人には手厚く、中堅には無関心”という会社の罠)も、根っこは同じです。放っておかれている、見てもらえていないと感じることが、給与とは別の場所で不満を静かに育ててしまうのですね。
今日からできる、給与の”渡し方”の工夫
とはいえ、賃上げ自体をやめる必要はまったくありません。衛生要因を整えることは、経営として大切な土台づくりです。大事なのは、賃上げという土台の上に、動機づけ要因をどう積み上げるかという発想です。以前、賞与についても「金額より渡し方が定着を左右する」という記事(ボーナスは”金額”より”渡し方”——夏の賞与で、中小企業が大企業に勝てる場所)を書きましたが、月々の給与についても同じことが言えます。
まず、昇給の通知を、数字だけの事務連絡で終わらせないことです。「なぜこの金額になったのか」「あなたのどんな働きを評価したのか」を、一言でいいので添えて伝える。理由が言葉になっているだけで、同じ金額でも受け取り方はまったく変わってきます。
次に、昇給とは別のタイミングで、小さな承認の機会を意図的に作ることです。給与改定は年に1〜2回でも、「ありがとう」「助かった」を伝える機会は毎日作れます。むしろ、賃上げをした年こそ、こうした日々の声かけを増やすチャンスと捉えるとよいでしょう。
そして、社員に少しずつでも裁量を渡していくことです。「任された」という実感そのものが、大きな動機づけ要因になります。細かい進め方まで指示するのではなく、ゴールだけ共有して任せてみる場面を、意識的に増やしてみてください。
すべての会社が、同じ悩みを抱えているわけではない
ここで一つ、お伝えしておきたいことがあります。今回ご紹介した調査結果は、あくまで全国の中小企業を対象にした平均的な傾向であり、業種や地域、企業規模によって賃上げの実情や負担感には大きな差があります。実際、この調査でも賃上げ促進税制について「制度を知らない」と答えた企業が48.5%にのぼる一方、すでに「活用している」企業も9.2%存在します。会社によって置かれている状況はさまざまです。自社の実情に照らし合わせながら、参考にしていただければと思います。
先ほどの社長には、こうお伝えしました。「賃上げは、間違っていませんよ。ただ、それだけで完結させようとせず、日々の”ありがとう”や”任せる”をセットにしていきましょう」。社長は少しほっとした様子で、「そうか、給料は土台であって、それだけじゃないんですね」とうなずいていました。
こうした”給与の設計”や”日々の関わり方”を、経営者おひとりで抱え込むのは大変なことです。仕組みづくりから一緒に考えてほしいという方は、経営の伴走顧問もぜひご覧ください。
まとめ
- 給与は「衛生要因」であり、不満を防ぐ土台にはなるが、それ単体で積極的なやる気(動機づけ要因)を生むわけではない
- 賃上げの効果は基準の上昇とともに薄れやすく、”当たり前”になった給料は次の不満を防ぎきれないことがある
- 承認・裁量・成長実感といった動機づけ要因は、大企業より中小企業のほうがむしろ作りやすい――昇給の理由を言葉にする、日々の声かけを増やす、小さな裁量を渡す、といった工夫から始めてみましょう

