「先生、うちは大丈夫やと思うんですけどね」
先日、ある社長とお話ししていて、こんな一言が出てきました。9月1日の「防災の日」にちなんで、社内で避難訓練をやろうかどうか迷っている、というご相談の途中でのことです。「地震も水害もこの何十年か大きな被害を受けたことがないし、正直、何から手をつけていいか分からないんですよね」。よくよく聞くと、避難訓練どころか、もし取引先の工場が止まったら、もし自分が急に倒れたら、という”もしも”を一度も紙に書き出したことがないとのことでした。
実はこの「うちは大丈夫」という感覚、経営者の油断や怠慢ではありません。人間の脳にもともと備わった、ある心理的なクセが働いているだけなのです。今日は、防災の日をきっかけに、多くの中小企業が事業継続計画(BCP)を後回しにしてしまう理由を、心理学の視点から見ていきたいと思います。
中小企業の8割が「備えていない」という現実
帝国データバンクが2026年6月に発表した「事業継続計画(BCP)に対する企業の意識調査」によると、BCPの策定率は21.4%で、過去最高を更新したとのことです。「増えているなら安心では」と思いたくなりますが、裏を返せば、いまだ4割超の企業が「策定していない」と答えており、規模別に見ると大企業が39.9%であるのに対し、中小企業はわずか18.3%にとどまります。約8割の中小企業が、大きな災害やトラブルが起きたときに事業をどう続けるかを、まだ具体的な計画に落とし込めていないということです。
出典:帝国データバンク「事業継続計画(BCP)に対する企業の意識調査」(2026年6月発表)。約8割の中小企業が、まだ具体的な計画に落とし込めていません。
これは決して「意識が低いから」「経営者が怠けているから」という単純な話ではありません。中小企業庁の調査でも、BCP導入が進まない背景には人材・時間・ノウハウ不足という構造的な事情があることが指摘されています。ただ、それとは別に、経営者の頭の中で静かに働いている、もうひとつの理由があります。
「正常性バイアス」とは——脳が危険を”見なかったこと”にする仕組み
「先生、それって単に忙しいからでは?」。社長にそう聞かれたので、私はこう答えました。「忙しさもあるでしょうけど、それだけじゃないんです。人には”正常性バイアス”という心理的な傾向があって、多少の異常事態が起きても『まだ大丈夫』『自分だけは平気』と考えてしまうんですよ」。
正常性バイアスとは、予期しない事態に直面したときに、それを過小評価し「これは正常の範囲内だ」と判断してしまう心理的な傾向のことです。もともとは、些細な変化のたびに過剰に反応していては心が持たないための、いわば脳の”安全装置”だと考えられています。火災報知器が鳴っても「誤作動だろう」と席を立たない、津波警報が出ても「今までも大丈夫だった」と避難が遅れる——災害心理学の研究でたびたび指摘されてきた現象です。
津波警報が出る
過小評価
ための、脳の安全装置
この仕組みは、日常生活では私たちの心を守ってくれる便利な機能です。ところが経営の場面では、この”安全装置”が逆に牙をむくことがあります。
厄介なのは、自分では気づけないこと
正常性バイアスの一番厄介なところは、それが働いている本人には「自分が楽観視しすぎている」という自覚がほとんどないことです。冷静に状況を分析した結果として「うちは大丈夫」と結論づけたつもりでいても、実際には心理的な防御反応が先に判断を決めてしまっている——ということが少なくありません。だからこそ、社長一人の頭の中だけで「備えは足りているか」を判断するのは、実はかなり危ういことなのです。
経営における正常性バイアス——3つの”うちは大丈夫”
災害だけでなく、経営にはいくつもの”うちは大丈夫”が潜んでいます。
ひとつ目は、取引先や仕入れ先の一極集中です。「あの会社とはもう20年の付き合いだから」という安心感が、いざその会社が被災したり倒産したりしたときの代替手段の検討を遠ざけます。
ふたつ目は、システムやデータのバックアップです。「今まで一度もサーバーが落ちたことがないから」という実績が、逆に”次も大丈夫だろう”という根拠のない確信を強めてしまいます。
みっつ目は、経営者自身の健康や後継体制です。中小企業では、社長が倒れた瞬間に資金繰りも取引先対応も止まってしまうケースが少なくありません。それでも「自分はまだ元気だから」という感覚が、緊急時の権限委任や引き継ぎの準備を先延ばしにさせます。
どれも、経営者が無能だからではありません。むしろ日々の業務を回すために必要な”平常心”が、そのまま思考の盲点になってしまっているのです。
| 取引先 | 「20年の付き合い」 →代替手段の 検討が遠のく |
| データ | 「落ちたことがない」 →次も大丈夫と 思い込む |
| 社長 | 「自分はまだ元気」 →引き継ぎの 準備が遅れる |
すべての会社に同じ備えが必要なわけではない
ここで一つ、誤解のないようにお伝えしておきたいことがあります。「BCPを作らなければいけない」と聞くと、分厚いマニュアルや専門的な体制整備を思い浮かべて、余計に腰が重くなる経営者の方も多いのではないでしょうか。実際には、業種や規模、立地する地域によって、備えるべきリスクの中身も優先順位も大きく異なります。水害の心配がほとんどない地域の会社と、河川のそばに倉庫を構える会社とでは、優先すべき対策はまったく違うはずです。すべての中小企業が同じ速度で、同じ内容の対策を進める必要はありません。まずは自社にとって”起きたら一番困ること”を一つ思い浮かべるところから始めれば十分です。
対策1:完璧なBCPでなく「小さな一歩」から始める
「先生、じゃあ何から始めたらいいんですか」と聞かれた私の答えはシンプルです。いきなり分厚い事業継続計画書を作ろうとしないこと。まずは「災害が起きた日、誰が・誰に・どう連絡するか」という緊急連絡網を紙一枚にまとめる、それだけで十分な第一歩になります。避難訓練も、消防署が呼びかける年に一度の全国統一訓練日に合わせて、机の下に潜るだけの数分間で構いません。小さく始めて「うちにもできた」という手応えを持つことが、次の一歩につながります。
対策2:他社の”ヒヤリハット”を聞く機会をつくる
正常性バイアスは、自分ごととして捉えられないときに特に強く働きます。だからこそ効くのが、実際に困った経験を持つ他社の話を聞くことです。商工会や同業者の集まりで「あのとき停電でこう困った」「取引先が急に倒産してこう対応した」という具体的な体験談を耳にするだけで、「うちも人ごとではないかもしれない」という感覚が生まれやすくなります。抽象的な「備えましょう」という呼びかけより、誰かの具体的な失敗談のほうが、経営者の心には残るものです。
対策3:「年に一度、疑う日」を先に決めてしまう
正常性バイアスの厄介なところは、一度「大丈夫」だと思い込むと、自分からその思い込みを疑い直すきっかけがなかなか訪れないことです。ですから、疑うきっかけを自分の意志ではなく、カレンダーに委ねてしまうのがおすすめです。「防災の日」や決算月など、毎年必ず訪れる日を「うちの備えを疑う日」と決めておく。1年前に立てた緊急連絡網の電話番号は今も正しいか、あのとき頼りにしていた取引先は今も同じ体制か——年に一度、そう問い直す習慣そのものが、静かなリスクマネジメントになります。
1 | 小さな一歩から始める 緊急連絡網を紙一枚に 数分の避難訓練でもよい |
2 | 他社のヒヤリハットを聞く 商工会や同業者の集まりで 具体的な体験談を聞く |
3 | 年に一度、疑う日を決める 防災の日や決算月に 備えを問い直す |
実際、忙しさが日々の学びの時間を奪ってしまうのと同じように、忙しさは「備えを見直す時間」も奪っていきます。だからこそ、意識して確保するのではなく、あらかじめ仕組みとして予定に組み込んでしまうことが大切なのです。
備えは、理念とセットで初めて機能する
もう一つ付け加えるなら、いざというときに社員がどう動くかは、日頃どれだけ会社の理念やあり方が共有されているかにも左右されます。経営理念が浸透している会社ほど、非常時にも「うちの会社ならこう判断するはずだ」という軸が現場に残りやすいものです。BCPはマニュアルだけの話ではなく、日頃の組織づくりの延長線上にあると考えると、少し取り組みやすくなるかもしれません。
ちなみに、正常性バイアスは緊急時の備えだけでなく、応募が来ているのに選考を先延ばしにしてしまうような、日々の経営判断のあちこちにも顔を出します。「今まで大丈夫だったから、今回もきっと大丈夫」——この感覚が邪魔をしているかもしれない場面は、実は思いのほか多いのです。
もし「うちの理念や仕組みを、非常時にも揺るがない軸として一緒に整えたい」という場合は、経営の伴走顧問のようなサービスを使って、外部の目を定期的に入れる仕組みを持つのも一つの方法です。
まとめ
「うちは大丈夫」という感覚は、経営者の怠慢ではなく、誰の頭の中にも働いている自然な心理です。だからこそ、意志の力だけで克服しようとせず、仕組みとして備える工夫が必要になります。
- 正常性バイアスとは、異常事態を「まだ正常の範囲内」と過小評価してしまう自然な心理的傾向のこと。経営者の油断ではなく、誰にでも働く脳の仕組み。
- 完璧なBCPを目指さず、緊急連絡網を紙一枚にまとめる、数分の避難訓練から始めるなど、小さな一歩でよい。備えるべき内容は業種・規模・地域によって異なる。
- 「防災の日」など毎年訪れる日を「うちの備えを疑う日」とあらかじめ決めておくことで、思い込みを定期的に問い直す仕組みができる。

