「先生、ユニクロさん、新卒の初任給をまた上げたらしいですね。今度は37万円やそうです」
先日、経営者の集まりでそんな話になりました。声のトーンは、驚きというより、少し疲れたようなため息交じり。「うちなんか、逆立ちしても出せる金額やないです」と。無理もありません。同じ土俵で戦えと言われても、体力の差は歴然としています。
ただ、このニュースを聞いたとき、私が本当に気になったのは「新卒をどう獲るか」ではありませんでした。むしろ、すでに社内にいる社員たちに、静かに起きているかもしれない問題の方です。今日は、その見落とされがちな話をしたいと思います。
37万円という数字が意味すること
ファーストリテイリング(ユニクロの運営会社)は、2026年3月入社の新卒から、初任給を33万円から4万円引き上げて37万円にすると発表しました。転勤を前提とした「グローバルリーダー候補」職での金額で、年収換算ではおよそ590万円になるそうです。転勤のない地域正社員も、28万円へと2万5,000円引き上げられます。
振り返ると、2023年3月入社から25万5,000円→30万円、2025年3月入社から30万円→33万円、そして今回37万円。ここ数年だけでも、段階的な引き上げが続いています。海外事業の好調さを背景にした、世界基準での人材獲得競争の表れといえるでしょう。極端に言えば、優秀な学生ほど、初任給の高い外資系IT企業やコンサルティングファームからも熱烈に声がかかる時代です。国内企業同士の相場観だけで金額を決めていると、そうした人材はまるごと持っていかれてしまう——それが「世界基準」という言葉の裏にある危機感なのでしょう。
中小企業がこのニュースにできること・できないこと
正直に言えば、金額そのものの土俵で張り合うのは、多くの中小企業にとって現実的ではありません。求人票の言葉で自律性を伝えるなど、金額以外の武器で戦う工夫はもちろん大切です。ですがそれは、これまでも繰り返しお伝えしてきた「入口(採用)」の話。今日お話ししたいのは、もう少し内側、すでに会社にいる社員の心の中で起きていることです。
見落とされがちな”内側”の問題——給与の逆転現象
初任給の引き上げが続くと、少し困った現象が起きます。それが「給与の逆転現象」です。たとえば、5年前に入社した社員の給与が、今年入ってくる新卒の初任給に近づいてしまう、あるいは追い抜かれてしまう、というケースです。
ユニクロほどの規模でなくても、新卒の採用市場に合わせて初任給だけを毎年少しずつ引き上げている会社では、じつはこの現象が静かに進んでいることが少なくありません。既存社員の給与テーブルを何年も手つかずのままにしていると、入口の金額だけがじりじり迫ってくるからです。
「金額は妥当」でも、なぜ社員は納得できないのか
ここで面白いのは、経営者側の理屈です。「新卒の37万円は市場価格として妥当。うちの中堅社員の給与も、それはそれで適正に決めている」——数字だけを見れば、どちらも間違っていません。それでも、社員の納得感はまったく別のところで生まれます。
心理学に「社会的比較理論」という考え方があります。アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーが1954年に提唱したもので、人は自分の状態を絶対的な基準ではなく、周囲の他者と比べることで評価する、という理論です。給与についても同じで、私たちは「自分の給与が十分かどうか」を、貯金残高や生活の満足度そのものより先に、「あの人と比べてどうか」で判断してしまう傾向があります。
入社したばかりの新卒と、5年間会社に貢献してきた中堅社員。給与の差が想像より小さい、あるいは逆転している——という事実そのものよりも、「比べてしまった」という体験自体が、静かに社員の心を蝕んでいくのです。
中堅社員が本当に引っかかっているのは「金額」ではない
面白いことに、こうした社員に本音を聞いていくと、「もっとお金をくれ」という単純な話には、意外と着地しません。引っかかっているのは金額そのものより、「この5年間の自分の頑張りは、会社にとってどんな意味があったんだろう」という、意味への疑問であることが多いのです。
これは、評価基準が”属人化”した会社ほど危ないという以前の記事でお伝えした話とも重なります。差の理由が説明されないまま放置されると、人は自分に都合の悪い方へ、都合の悪い方へと解釈を進めてしまうものです。
中小企業がやりがちな、2つの失敗
この問題に直面した経営者が陥りやすい失敗が2つあります。ひとつは「気づかないふり」。新卒の初任給と中堅社員の給与差が縮まっていることに薄々気づいていながら、忙しさを理由に手をつけないパターンです。もうひとつは逆に「あわてて埋め合わせ」。慌てて中堅社員の給与を一律で底上げし、翌年また新卒の初任給が上がって振り出しに戻る、といういたちごっこです。どちらも、根本の設計に向き合っていないという点では同じです。
なお、初任給の引き上げ競争が激しいのはあくまで一部の大手・注目企業の話であり、最低賃金の引き上げのように業種・地域・企業規模によって賃金を取り巻く事情は大きく異なります。すべての中小企業が同じ速度でこの逆転現象に直面しているわけではない、という前提は忘れずにおきたいところです。
対策①:給与テーブルを定期的に点検する
まずは、新卒の初任給と、勤続3〜5年目の社員の給与との差を、年に一度でいいので確認する習慣を持つことです。差が縮まっていないか、逆転していないかを数字で把握するだけで、問題を「気づかないふり」できなくなります。感覚ではなく、数字で見るのがポイントです。
対策②:差の理由を”言葉”で伝える
給与差そのものより、説明されないことが不満の火種になります。「なぜこの給与なのか」「この先どう伸びていくのか」を、評価面談などの場で言葉にして伝えるだけで、同じ金額でも受け取り方は大きく変わります。数字を隠さず、意図を語ることが大切です。
対策③:金額以外の”報酬”を可視化する
中堅社員には、新卒にはまだ渡せない裁量や役割の重みがあるはずです。任されている仕事の範囲、後輩への影響力、意思決定への関わり方——こうした「金額に出ない報酬」を、あらためて言葉にして本人に伝える機会を持ちましょう。比べる相手を金額だけに限定させない工夫が、社会的比較のダメージを和らげます。
こうした給与制度や評価の設計そのものを見直したい、という場合は、経営の伴走顧問で一緒に整理していくこともできます。ひとりで抱え込まず、対話しながら進めていきましょう。
まとめ
- 初任給の引き上げが続くと、既存社員との給与差が縮まる・逆転する「給与の逆転現象」が静かに進むことがある
- 人は給与の絶対額より、周囲との比較(社会的比較理論)で納得感を判断するため、差の”事実”より”説明のなさ”が不満を生む
- 年に一度の給与テーブル点検・差の理由を言葉で伝えること・金額以外の報酬の可視化、の3つで対応できる
「先生、うちもそろそろ、給与テーブルを見直した方がよさそうですね」——そう気づいた瞬間から、対策は始められます。ニュースに一喜一憂するより、まずは自社の中を静かに点検してみることから始めてみませんか。

